2008年2月22日
 弘道館                                                     

 昨年に続きまた今年も水戸在住の伯母を訪ねて水戸に行きました。今年は観梅には早過ぎてごく一部しか楽しめずに残念でしたが、弘道館で水戸の歴史に興味深くふれる事が出来ました。
 弘道館は、水戸藩の藩校として第9代藩主 徳川斉昭により天保12年(1841年)8月に創設され、現在は国の特別史跡に指定されています。建物のうち、弘道館の戦い(1842年)で焼け残った 正門・正庁・至善堂は、国の重要文化財に指定されています。当時の敷地は日本で最大規模の178,000㎡でしたが、現在では弘道館とそれに隣接する弘道館公園で34,167㎡と、当時の1/5になっています。 
 

 正門(右)
 旧藩時代には藩主来館の時に限って開けられていた正門は、老朽化しているため普段は通用門を使用しています。主に皇族が来館される時に開門されているそうですが、梅祭り期間中の土日に限って開門され一般開放されます。

 正庁の正面玄関(左下)
 右近の「桜」・左近の松 
これは、徳川斉昭の文明夫人が有栖川織仁親王の九女で京都からお輿入れしたため、京都の公家風に倣って 右近の橘・左近の松 を植樹したのですが、あいにく水戸の冬の寒さに橘は合わなかったので、橘の代わりに桜を植えたのだそうです。


 至善堂(右下)
 裏正面に植えてある梅は酈懸梅「てっけんばい」。花びらが殆どない珍しい品種だそうですが、花の見頃はまだまだ先。
 正庁
 藩主が臨席しての文武の試験や儀式などに用いられた場所
 ←床の間の掛け軸に書かれている「尊攘(尊王攘夷)」は、国の存在の根拠としての尊皇(尊王)と、侵略・侵入してくる外国に対抗する攘夷が結びついたもので、天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退しなければ日本の未来はあり得ないという表現です。幕末には各藩や公家または幕府内の過激派の間で熱く論じられた思想で、先導役だった水戸の藩校の正庁にこれ以上相応しいものはないと思われます。          →
 藤田東湖の草案に基づき、斉昭公の名で発表された「弘道館記」は、弘道館建学の精神を天下に宣言した碑文です。こちらの床の間に掛けられているのは、現在八卦堂に収められている弘道館記碑の拓本です。

 至善堂

 正庁の奥には、藩主の休息所であり、諸公子の勉学所であった至善堂が繋がっています。4つの部屋から成り立っていて、どちらかと言うとプライベートな部分です。また至善堂は、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還後に謹慎した場所でもあります。現在は水戸藩や弘道館に因むものが、展示されています。

湯殿 

弘道館学則の版木

版木を印刷した物

 庭に下りて
この扁額は、九代藩主徳川斉昭がご質問の扁額は「藝於游」と書かれており「芸に遊ぶ」と読みます。弘道館を創設した時弘道館における学習態度を簡潔に表したもので、烈公(斉昭)の親筆になるものです。出典は論語で学問に凝り固まらないで悠々楽しみながら勉強するという意味です。ちなみに、「藝」とは論語にいう六芸のことで、礼(礼儀作法)、楽(音楽)、射(弓術)御(馬術)、書(習字)、数(算術)を指しますが、弘道館ではもう少し広く解していたそうです。

対試場跡

 梅林
 敷地には梅が60種800本植えられていて、偕楽園に並ぶ梅の名所となっています。
ちなみに昭和9年に選定された水戸の六名木は、「月影」「白難波」「烈公梅」「江南所無」「柳川しだれ」「虎の尾」です。

座論

八重冬至

八重寒紅

虎の尾

緋の司

桃園

水心鏡

香てん梅

八重松島
         
         臥竜梅(がりょうばい)
 樹形に特徴のある梅です。老成した梅の木は四方に広げた枝を地上に落とし、地面に接したところから根を発生させ新しい株となります。 黒々と節くれだった幹が、うねうねと地に潜っては昇り又潜っては立ち上がる、大地を這い回る龍の壮絶な姿を彷彿とさせることから臥竜梅と呼ばれているそうです。
 古木なので名前に反して痛々しいように見えましたが、元気にたくさん蕾をつけていました。

 弘道館公園
 斉昭は弘道館の精神の拠り所として孔子廟と鹿島神社を祀り、藩校の聖域としました。残念ながら孔子廟・八卦堂・鹿島神社は戦災に遭い焼失したので、戦後再建されたものです。  

孔子廟

江戸時代の古井戸

学生警鐘

八卦堂
← 八卦堂は八角の各面の上欄に八卦(易)の算木が取り付けられているのでこの名が付きました。
                  →八卦堂の中には弘道館記碑が収められています。
鹿島神宮 ご神木の鈴梅
烈公お手植えの3本の梅のうちの1本
花は遅咲きなので見れませんでした。
ご神木の梅の梅干
鹿島神社の宮司さんの手作りです。